『ぺガーナの神々』ロード・ダンセイニ

クトゥルー神話と並ぶ有名な創作神話でファンタジーの古典。

原初より存在する真の神(マアナ=ユウド=スウシャイ)がいて、世界や人間を作ったのは真の神に創られた小さな神々であるという点が、グノーシス神話を思い浮かべてしまいます。人間が小さな神々の秘密を絶対に知ることができないようにしているところもそれっぽい。

『黎明を創る』の黎明王女インザナのエピソードがお気に入りです。作中に出てくる〝黄金の鞠〟はたぶん太陽のメタファーだと思うんですが、ことあるごとにそれを失くして、泣いてしまうインザナはなんだか微笑ましい。
(05/12/15)

ペガーナの神々 (ハヤカワ文庫 FT 5)
ペガーナの神々 (ハヤカワ文庫 FT 5)

『長靴をはいた猫』(河出文庫版・澁澤龍彦訳)

表題作は有名な童話なのでおいておくとして、気になったのは『捲き毛のリケ』。
これって本当にこんな話なのでしょうか?

醜くて天才のリケと美しくて馬鹿なお姫さまが結ばれて幸せになるのはいいんですが、売れ残った妹、〝醜くて頭のいいもう一人のお姫さま〟が明らかに不幸になっているんですが。
別に姉に意地悪をしたわけでもないのに、〝みっともないお猿さんのように〟なんて表現されて、さんざんな扱いです。  この童話の本当の教訓は、誰かが幸せになると、誰かが不幸になるということなのか……。
(2005/10/29)

長靴をはいた猫 (河出文庫)
長靴をはいた猫 (河出文庫)

『沖の娘』(『現代フランス幻想小説』収録)

(2005年)
『総解説 世界の幻想文学』(自由国民社)の紹介文を見て以来、ずっと気になっていた短編。
物語の内容としては、大西洋の真っ只中に小さな村のようなものが浮かんでいてそこに十二歳の娘がたった一人きりで住んでいる、という話。船が近づくとその村は娘ごと海の中に沈んでしまうので、誰一人として永久に彼女の存在を知ることはないのです。幻想的なモチーフですが、よく考えてみると不気味です。沖の娘の自室のタンスの中になぜか彼女と瓜二つな娘の写真があって、そちらの方が『本物らしく』見える、というのも沖の娘の存在を不気味なものにしていると思います。数ページの短い話なのですが、妄想をかきたてられるような短編でした。

(2006年11月追記)
シュペルヴィエルの『沖の娘』が『海に住む少女』と改題されて書店に並んでいるのを見かけてびっくり。光文社の古典新訳文庫という新レーベルから発売されているようです。つい購入してしまったので、窪田訳と比べてみました。
〝彼女はこれらの仕事を、ある本能に動かされ、いやでも万事に気を配らないではいられない日々の感興に駆られて行っていた。〟
~窪田般彌訳 シュペルヴィエル『沖の娘』(白水社『現代フランス幻想小説』所収)

〝少女はこの役割を、本能のままに、何もかもきちんとしておかなければならないという日々の思いに動かされて、黙々とこなしています。〟
~永田千奈訳 シュペルヴィエル『海に住む少女』(光文社古典新訳文庫)

訳が変わるとだいぶ雰囲気が変わっています。永田氏の訳は児童書風で海に住む少女の愛らしい・哀しい感じがより強調されています。原文がどちらの訳に近い雰囲気なのか非常に気になるのですが、外国語は全然読めません。語学に堪能な人が本当にうらやましい。

海に住む少女 (光文社古典新訳文庫)
海に住む少女 (光文社古典新訳文庫)